優しい場所

(25)





 何もない真っ白な空間。
 そこに雫の身体が浮かんでいた。
 だが、その身体は徐々に透き通っていく。

 生きる事を諦めてしまった為、雫の魂が消えようとしていた。
 もう少し時間が経てば、雫の魂は完全にこの世から消えてしま
 うだろう。
 
 雫自身その事に気付いていた。
 それで構わないと思っている。
 この苦しみ、悲しみから解放されるのであれば死ぬ事など怖く
 なかった。

もうすぐ解放される・・・・

 消えゆこうとしている雫の顔には笑みが浮かんでいた。
 意識も徐々に薄らいでいく雫に何かが聞こえてきた。
 
・・・・! ・・・・れ! もど・・・・!

 遠い遠い所で叫ぶ声。
 誰かが必死で叫んでいた。
 それに気付いた途端、声が近くなる。
 
逝か・・・か! ・・・どれ! 戻って・・・!



 仁志に腹を刺され、意識が遠のいていく時、雫は死ぬのだと思
 った。

 意識を失う前に聞いた和磨の「雫死ぬな!」という悲痛な叫び。
 あんな悲しい声など出させたくなかった。
 和磨には、あの優しく穏やかな顔のままでいて欲しかった。
 初めて会った時の暗く、深い悲しみを負った瞳は今ではなくな
 っていたのに。
 また自分のせいで傷つけてしまった。

でも・・・・
 
 悲しいが、二度と和磨に会う事はない。
 人を、家族を不幸にしてまで生きていたいとは思わない。

ごめんさい
愛していました・・・・・

 「死ぬな」と言ってくれた和磨には、申し訳なく思ったがこのまま
 死ぬつもりでいた。
 自分がいなくても、和磨の周りには優しく温かい人が沢山いる。
 今は悲しくても、彼等が和磨を癒してくれるだろう。
 そして和磨には自分よりもっと相応しい相手が現れ、幸せにし
 てくれるだろう。
 自分など、時間と共に和磨の中から消えてしまうに違いない。

そう、悲しいのは今だけ・・・・・
だからそんな顔しないで

 それなのに雫を引き留めようとする者がいる。
 放っておいてほしいのに。
 このまま逝かせて欲しいのに。

誰・・・・
なぜ僕を引き留めるの
どうしてこのまま死なせてくれないの・・・・

 生きる事を諦めたのに、それを咎め、引き留めようとする誰か
 に絶望する。
 声に気付いてしまったからか、微かだった意識がはっきりとして
 いく。
 そのため、消えようとしていた姿も元へと戻っていく。

 実体ではなく魂の存在。
 本来身体を触る事など出来ない筈なのだが、引き留める者は雫
 の腕をしっかり掴んできた。
 大きく力強いその手。
 
いや、離して!

 掴まれた手を振りほどこうとするが、その手はより力を入れてく
 る。
 逃がさないというかのように。

『逝くな! お前はまだ生きろ。 今ならまだ戻れる』

 戻りたくない。
 家族から存在を否定され、冷たい目で見られるなんてもうたくさ
 ん。
 ずっと我慢してきた。
 ずっと頑張ってきた。
 もう頑張れない。

『和磨を、また和磨の心を闇の世界に戻すのか!』

 見知らぬ声の人物は和磨の事をよく知っているようだ。
 雫も心に闇を抱えていたため、和磨の心の闇に気付いた。
 その雫よりも、より詳しく闇について知っているかのような口調。
 しかし、和磨の側にこの声の人物はいなかった気がする。
 一体誰なのだろうと気になりはじめた途端、雫の身体は急速に
 姿を確かなものへと変えていく。 
 そして透き通っていた身体は完全に元に戻った。

 相手も身体が完全に戻ったのが分かったのか、腕を掴んでい
 た、ほんの僅かではあるが手の力を緩めた。

『頼むから和磨の元に戻ってやってくれ。 あいつを一人にしない
でやって欲しいんだ。 和磨の闇を消してくれるのはあんただけ
なんだよ。 頼む・・・・・』

 雫の心に訴えかける声は真剣で必死であった。
 漆原や澤部、その他和磨の家族以外も皆和磨の事を感情は
 違えど思いやっていた。
 だが、これ程までに和磨の事を強く思いやる人物はいなかっ
 た気がする。

でも・・・・

『悲しいのは今だけ・・・・。 僕の事なんて直ぐ忘れてしまう・・・・』

 心の言葉が思わず零れていた。

『ふざけるな! あんた、本当にそんな事思ってるのか。 和磨の
想いがそんな弱いもんだと思ってたのかよ! そんな薄情な男だ
と思っているのか!』

 雫の零した言葉に対して激しい怒りをぶつけてくる。
 和磨が薄情だなんて思っていない。
 そんなつもりで言った訳ではない。
 ただ、自分がたいした人間ではないから。
 そこまで思ってもらえる程の価値がないと思っていたから。

 誰よりも和磨を思って心配する相手に雫は興味を覚えた。
 どんな人物なのか見てみたいと思った。

 閉じていた瞼をゆっくりと開く。
 すると目の前には、彫りが深く整った鼻梁と甘い目元をした男
 がいた。
 やはり見覚えない。

一体、誰なんだろう
 
 男の顔を凝視する。
 初めて会う人物だが、怖くはなかった。
 意識体になったから人見知りがなくなったのだろうか。
 それとも死を覚悟したからなのか。
 見つめて来る男の瞳が、あまりにも真剣だったからなのかも
 しれない。

 今まで拒んでいた雫が意識を向けたので、男はより強く訴えか
 けてきた。

『和磨を一人にしないでやってくれ』

 男の言葉に雫は静かに首を振る。

『ごめんなさい・・・・。 僕は、疲れました』

 か細い声で生きる事を拒絶すると、男は雫を怒鳴りつけた。

『馬鹿野郎! 生きるのを諦めるな。 自分で命の火を消そうと
するな。 見ろ!』

 男の言葉に空間が揺れ、何もなかった真っ白な空間に、映画
 のスクリーンのような物が現れ、そこには和磨の姿が映し出さ
 れた。

 見たことのある部屋。
 神崎の屋敷の一部屋のようだ。
 そこに己の姿があった。
 真っ白な顔で布団に横たわる自分の姿。
 その脇に和磨の姿が。
 他にも磨梨子達が雫の側にいた。

 彼等の手、その周りには数多くの写真が並べられている。
 画面に写真の一部が大きく映し出された。
 全ての写真に雫の姿が写っていた。
 どれも自然な己の姿。

 緊張した顔、戸惑った顔、頬を赤らめた顔、微笑んだ顔。
 色々な表情をした雫が写っていた。
 和磨がその内の一枚の写真を手に取っていた。
 初めて和磨と二人でカイザーに乗った時の物のようだ。
 雫は振り返り和磨に楽しそうに微笑んでいた。
 そんな雫を和磨は優しい瞳で見つめている。
 和磨の愛情が伝わってくる写真だ。
 その写真を和磨は寂しそうな顔で見ていた。

『和磨さん・・・・・!』

 スクリーンに向かって手を伸ばす。
 だが雫の手は届く事はない。
 瞳からは涙が溢れる。

 そして映像が変わる。
 場所は病院の治療室のようだ。

『これは少し前の映像だ』

 治療代の上に己の姿が。
 その周りには一ノ瀬と看護師がおり、必死で横たわる雫に処
 置をおこなっていた。

『これを見てもまだあんたは生きるのを拒むのか。 あいつらの
事を見捨てるのか』

 他にも和磨の家族、漆原達の姿が映し出される。
 皆、必死で雫の名前を呼び戻ってこいと叫んでいた。
 彼等の姿に、胸が締め付けられる。

『あんなにあんたの事を心配している。 あんなにも必死な姿を
見てもまだ死にたいと思うのか? 優しいあんたに、彼奴らを
見捨てて死ぬなんて事出来ないだろ。 今ならまだ戻れる。 俺
とは違って、戻れるんだ・・・』

 目の前にいる男の瞳が揺れる。
 理由は分からないが、男の戻りたくても戻れないという、苦しく
 切ない思いが伝わってくる。
 でも、もう嫌なのだ。

『ごめんなさい!』

 緩んだ手を振り払い、雫は逃げ出した。
 その瞬間、スクリーンの中に映っていた雫の心臓が止まった。

《何で、何でだよ! 起きろよ、起きてくれよ!》

 必死で雫に生きろと呼びかける勇磨の声。
 泣き崩れた磨梨子の姿が瞳の端に映った。
 身を引き裂かれる思い。
 だが雫は彼等の姿を振り切った。

 このまま男の言葉を聞いていたら、決心が鈍ると思ったから。
 それでなくとも、和磨達の姿を見てしまったため、心が揺れ始め
 ている。
 
和磨さん!

 和磨の姿を思い出す。
 深い悲しみに沈んだ瞳。
 初めて会った時の瞳より深い闇に染まっていた。
 仁志に刺され、目の前で雫の命が消えたのだ。
 
 『お前は俺の伴侶だ。 勝手に離れる事は許さない』と言われて
 いたのに、雫は和磨から離れてしまった。
 それも最悪な方法で。

和磨さん、和磨さん、和磨さん!

 瞳から涙が溢れる。
 大好きだった人。
 初めて雫を愛してくれた人。
 大きな腕で雫を包み込み心を癒してくれた人。

戻りたい・・・・

 こんなにも心が和磨を求めている。
 何もない空間をひたすら走り続けた。





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