優しい場所

(22)





 雫を腕に抱いたまま、中庭を全速力で走り抜ける和磨。

 北村が吐き出した激しい呪詛のような言葉が雫を傷つけパニッ
 クに陥れた。
 普段の雫は和磨達が話しかけても、返事を返す事なくボンヤリ
 しているだけなのだが、特定の、悪意のある言葉を聞くと琴線に
 触れ意識が戻るようだ。

 悪意ある言葉は弱り切っていた雫には耐えられなかったのだろ
 う、和磨の腕の中で意識を失った。
 今にも途切れてしまいそうな弱々しい鼓動に、和磨は今度こそ
 雫を失ってしまうのではという危機感に捕らわれた。

失わせはしない!
 
「和磨君、急げ!」

 一ノ瀬に言われるまでもなく、和磨は走り出していた。
 その後に一ノ瀬と漆原も続く。
 既に50半ばを過ぎているにも拘わらず、和磨達に遅れる事なく
 一ノ瀬はついて来た。
 忙しい中、体力を衰えさせないために毎日トレーニングをおこな
 っているからだろう。

 一ノ瀬は走りながら携帯で救急センターに連絡を入れていた。
 センター入口に着くと既にそこにはスタッフがストレッチャーを用
 意し待機していた。
 和磨はこれ以上雫に振動を与えるのは良くないと思い、直ぐさま
 雫をストレッチャーに。
 
 処置室に到着すると待機していた一ノ瀬の甥と、一ノ瀬が雫の
 処置にかかる。
 
 ガラス越しにその様子を見守る和磨達。
 雫が大変な時に何も出来ない自分達に歯がゆさを感じていた。
 和磨達が出来るのは、ただ祈るだけ。

逝くな!

 そう祈るしかない。
 
 果てしなく長く感じた時間。
 だが実際には30分も掛かっていなかった。
 弱まっていた鼓動も今は通常通りに戻り、命に別状はないとい
 う説明に和磨の隣りにいた漆原が安堵の息を漏らす。

あれだけお前を守ると言いながら・・・・

 また雫の心を傷つける事になってしまった。
 己の不甲斐なさを呪う。
 誰に対しても恐れる事などなかった。
 命を狙われても恐ろしいと感じる事もなかったし、己の力でねじ
 伏せ倒して来た。
 だが、雫と出会って、大切な物を手に入れた途端その思いが覆
 された。
 傷つけられる怖さ、失う怖さを初めて知った。
 
こんな感情など必要ないのに・・・・・

 でも知ってしまった。
 二度と知らなかった頃には戻れない。
 だからこそ、二度とあじあわないよう注意を払っていた筈なの
 に。

 酸素マスクを付け、他にも様々な機械を取り付けられている雫
 を見ると何ともいえない感情が込み上げ、意味もなく叫びたくな
 る。
 心の底から叫べば少しは楽になるのだろうかと思うが、そんな
 事をしてもこの感情はなくならないだろう。
 なくなるとしたら、その時は雫が目を覚ました時に違いない。

どんな形でもいい、目を覚ませ

 機械に繋がれていない方の手を握り、ただ祈った。



 ICUに入って3日目。
 雫は今だ目を覚まさない。
 部屋の外には面会謝絶の札が掛かったまま。
 雫の事を聞きつけ勇磨と磨梨花も病院に訪れ、面会謝絶の札
 を見て愕然としていた。

「なんでだよ・・・・・」

 やっと良くなって来た矢先なだけに、この状況が理解出来ない
 でいた。
 
「お兄様・・・・・」

 磨梨花は和磨の事を心配げに見ていた。
 幸せだった二人の姿を見ているだけに、この状況は辛く受け入
 れがたいのだろう。
 何故雫ばかり、こんな目に合うのだろうと憤りを感じているよう
 だ。
 ガラス越しに眠る雫を暫く見つめ、勇磨達は戻って行った。

 仕事を終え、いつもより遅く病院へ訪れた和磨。
 ベッド脇の椅子に腰掛け、雫の手を握る。
 
温かい

 生きていると感じる事の出来る瞬間。
 眠る姿を見ているだけでは、本当にそこに生があるのかと思う
 程、雫の顔には熱が感じられなかった。
 だが、こうして触れる事で熱を感じ雫が生きている事を感じられ
 た。

 今は安定している雫。
 ブラインドの隙間から月が見える。
 奇しくも今日は満月。
 月の満ち欠けが何らかの影響を及ぼすのならこの日も何かが
 起こる筈。
 今までにも満月と共に奇跡が起こってきた。
 そして今回はそれとは別に和磨自身にも。

あの夢が本当なら・・・・

 明け方見た夢を思い出す。
 
 今までにも夢は見てきたが、朝起きると内容等は殆ど覚えてい
 なかった。
 覚えていたとしても、和磨にとってはくだらないと思うものばか
 り。
 気にも留めていなかった。
 
 だが今回は違った。
 懐かしい男が夢の中に現れた。
 
狩野・・・・

 忘れる事のない事件。
 叔父の裏切りにより命を狙われた和磨。
 その和磨を庇い銃弾に倒れた狩野という男。
 幸い命は取り留めた。
 世話役であり、時には家族で兄のような存在だった。
 豪快で懐が広く、物事の判断にたけ、常に先を見通していた。
 だが裏切りには冷酷な男だった。
 にも拘わらず下の者から慕われていた。

 あの頃は狩野のような男になりたいと思っていた。
 それは今でも変わらないのだが、自分にはなれない事を知って
 いる。

 今も神崎本家の一室で眠り続ける狩野。
 年が過ぎた分だけ狩野も年をとった。
 しかし夢の中に現れた狩野は元気な時の姿のまま。
 和磨が成長した分、身長差はなくなりほぼ目線は変わらない。
 細かく言えば少しだけ和磨の方が高かった。
 不思議な感覚だ。

『和磨』

 懐かしい声に目を細める。
 右手が頭に乗せられ髪の毛をかき回された。
 昔と同じ仕草。
 他の者が同じ事をやれば即刻命はないだろう。
 狩野だから許していた。

 懐かしい思い出からふと我に返り狩野を見る。
 変わりなかった身長の筈が見上げる形になる。
 和磨が高校生だった頃の身長差に。

『大丈夫だ』

 狩野が言うと本当にそう思えた。
 そして確実に不安は取り除かれた。
 やくざという特殊な環境に生まれた和磨。
 周りからは、軽蔑、侮蔑、恐怖を向けられていたが、それでもあ
 の頃は幸せだと感じていた。
 
『狩野・・・・』

 名前を呼ぶと、もう一度『大丈夫』と言いニカッと笑った所で目が
 覚めた。
 
大丈夫と言うあの言葉が本当なら

 満月の今日、雫が目覚めるのかもしれない。
 そう思うと、仕事をしていてもその事ばかりが気になって仕方な
 かった。
 何かあれば直ぐ連絡が来るようになっているのだが、結局和磨
 は今日の予定をキャンセルし病院へ来てしまった。

 それから数時間経っているが、今だ雫に変化は起こらない。

いつまで眠り続けるつもりだ

 そっと髪を梳く。
 そして酸素マスクを外しその唇にキスを落とす。
 血が通っているのに冷たい唇。
 和磨は自分の熱を移すように繰り返しキスをする。

雫、戻って来い
お前に伝えたい事がある
どうしても伝えたい言葉が!

 和磨より冷たかった唇が段々熱を持ってきた。
 熱が移ったのか、それとも雫の体温なのか。
 唇を離し雫の顔を見ると、口づける前と比べ明らかに顔色が変
 わっていた。

 紙のように白かった頬が熱を持ち始めていた。
 唇も血が通い始めたのか桜色に染まり始めた。

「雫?」

 名前を呼ぶと僅かであるが瞼が震え始めた。

これは・・・・

 呼ぶ声に反応したのだろうか。
 同時に狩野の『大丈夫』という声が頭の中に蘇る。
 その声に押されるように和磨は雫の名を呼び始める。

「聞こえるか、雫。 戻ってこい、雫!」

 その声に、外に控えていた漆原達がドアを開け入ってきた。

「和磨さん?」

 榎本の呼びかけにも答えず、和磨は雫を呼び続ける。
 そんな和磨の姿に危機を感じたのか、漆原がナースコールを。
 直ぐ横のセンターから看護師達が飛び込んでくる。

「どうしました!?」

 容体が安定していた雫だっただけに、突然のコールに看護師
 達も焦っていた。
 だが中に入ると雫には変わりなく、その横にいる和磨が雫の名
 を繰り返し呼んでいただけだった。

「あの・・・・・」

 止めなくてはならないのだが、必死な和磨の様子に看護師達
 は止める事が出来ないでいた。
 ただ見守っていると、連絡を受けた一ノ瀬がICUへと飛び込ん
 で来た。

 その間にも雫の瞼の揺れは大きくなり、握っていた手も僅かで
 あるが力が込められてきた。

「雫、目を覚ませ!」

 和磨が叫ぶと遂に雫の瞼が開かれ始めた。

「これは!」

「雫さん・・・・」

「雫ちゃん!」

 澤部も目を覚ませと名前を呼ぶ。
 皆が驚愕し見守る中、雫の瞼が完全に開かれた。
 
「奇跡だ・・・・」

 目の前で起こった出来事に榎本がボソリと呟く。
 そして直ぐさま病室を後にし、征爾達へと連絡を入れた。

 今度はどうなのだろうか。
 雫の意識は、自我は戻って来たのだろうか。
 和磨達の中に不安がよぎる。

「雫・・・・・。 分かるか」

 目覚めたばかりだからだろうか、雫はうつろな表情で天井を見
 つめたまま。

やはり駄目なのか!

「雫っ・・・・!」

 詰まるような声に、その場にいた者達も胸が締め付けられ二人
 から顔を背けた。
 眠り続ける雫に愛情を注ぎ献身的につくしてきた和磨を側で見
 ていただけに、その姿は居たたまれない。
 
 だが次の瞬間、空気の漏れる音が。
 見ると天井を見つめていた雫の顔が少しだけ傾けられ、その瞳
 は和磨を映していた。

「雫?」

「雫さん?」

 和磨が顔を覗き込むように問いかけると、瞳が揺れ返事を返す
 かのように口が僅かに動いた。
 
「!!」

 声は聞こえなかったが、その唇は確かに『かずま』と動いてい
 た。
 見間違えではない。
 確かに動いた。
 
「雫!」

 和磨が顔を歪め呼びかける。
 すると雫の瞳から透明な涙が零れた。
 和磨がその涙に触れると確かに温かかった。
 遂に雫が目覚めた。





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