優しい場所

(17)





 今度こそ目覚めたのだろうか。
 息を呑んで見守る。

「雫さん、分かりますか。 私の声が聞こえていますか」

 一ノ瀬が雫の手を取り脈を測りながら声を掛けるのだが、そ
 の声に反応はなく、虚ろに天井を見つめたままだった
 
何も聞こえていないのか?

「雫、聞こえるか」

 顔を覗き込み和磨も声を掛けてみるが、やはり変わりない。

「これは、どういう事だ」

 診察の手を止めないまま一ノ瀬が和磨の疑問に答える。

「分かりません。 ただ・・・・」

「ただ、何だ」

「あくまでも推測ですが、目覚める切っ掛けとなったのは昨夜の
出来事かもしれないですね。 雫さんにとって『殺す』『始末する』
『消す』という言葉はある意味キーワードかと・・・」

 一ノ瀬の言葉通り、その言葉を口にしただけで雫の体がピクリ
 と跳ねる。

「先生!」

 漆原が非難の声を上げる。
 また昨夜のような大きな痙攣を起こせば、今度こそ雫の体が
 壊れてしまう。
 分かっていながらその言葉を口にする一ノ瀬に対し、和磨は
 鋭い目で睨み付けた。
 いくら征爾の友人であり信頼の置ける一ノ瀬であっても、雫を
 傷つけるのは許さないとばかりに。
 その冷たさ、鋭さに一ノ瀬は思わず汗をかき謝罪した。

「すまない」

 患者、その家族に対しては丁寧な言葉で話す一ノ瀬。
 和磨家族とは昔から付き合いがある為、普段は砕けた口調で
 話をしているが、診察の時などは関係なく丁寧に話していたの
 だが、和磨の様子に思わず口調が普段のものへと変わってし
 まった。
 
 和磨達の懸念とは裏腹に、雫は一度体を跳ね上げただけで
 痙攣を起こすことなくただ天井を見つめたままだった。

「私は彼の主治医。 雫さんの事は神崎氏からも聞いている・・・。
彼が今までどんな目にあったのかも。 辛い目に合っている時
多くの否定の言葉を言われ続けていたに違いない。 それが心
に深く根付いているために反応したのではないだろうか」

 痛ましげに雫を見て大きく息を吸う。
 気持ちを切り替えるように。

「兎に角、耳は正常に聞こえている事はわかりました。 出来れ
ば今日にでも検査をしたいところですが、今は変わりがないよう
なのでこのまま少し様子を見てみましょう」

 診察を終えた一ノ瀬は雫に布団をかけ直し立ち上がる。
 本当に大丈夫なのか。
 今すぐ検査しなくて、本当に何も問題ないのか不安で仕方な
 い。
 しかし、一ノ瀬がこう言うのだ。
 彼等は信じるしかなかった。
 一ノ瀬が和磨達に振り返り、安心するようにと語りかける。

「和磨君。 君達が心配するのはもっともだ。 だが検査をした
からといって彼の意識がハッキリ戻るとは限らない。 今は慎
重に、本当に検査が必要であればその時に検査を行う。 2、3
日なら私も体があいているから泊まり込みで診ても構わない」

 一ノ瀬病院の院長である一ノ瀬が暇なわけない。
 病院経営、学会に会合など飛び回っている。
 だからと言って診察から遠ざかる事もなく、自ら診察、手術を
 行い現場に立ち知識を腕をより磨いている。
 お陰で遠くの他県からも一ノ瀬を頼ってくる患者は後を絶たな
 い。
 その一ノ瀬が屋敷にいてくれるのであればこれ程心強いもの
 はない。
 和磨は何も言わず有り難くそれを受け入れる事にした。
 付き添いとして深山がいるが、彼は医師ではない。
 やはり医師であり、経験と優秀な腕を持つ一ノ瀬が側にいて
 くれれば安心だ。

「漆原、部屋の用意を」

 一ノ瀬の部屋を用意させている間に、今度は和磨が診察を受
 ける。
 必要ないとは言ったのだが、その言葉は当てにならないから
 と強引に診察される事に。
 
 和磨はまだ若いし、体を鍛えてはいるが一ノ瀬同様、毎日忙し
 く働き仕事をこなしている。
 若いからといって、体が病気にならないとは限らない。
 和磨自身、特に気にはしていなかったが、雫が倒れてからは
 肉体だけではなく、精神的にも疲れているとまで言われてしま
 う。

 確かにここ数年、体を壊し病院にかかった事はない。
 体が資本だからと、自宅道場、トレーニングマシンを使い体を
 動かし鍛えてもいるし、年に一度は健康診断もおこなってい
 る。
 検査の結果は勿論『異常なし』
 だが昨年は色々な事が起き、自分の健康診断は後回しとなっ
 ていた。
 レントゲンなどは無理だが、診察、後は採血はこの場で出来る
 からと、和磨は診察を受ける事にした。

 その場にいた澤部もついでにと診察を受けさせられ、採血の
 時には「針、怖い・・・」顔面蒼白になり、その情けない姿を深
 山が携帯ムービーで撮影していた。
 その後そのムービーを漆原や美咲に見せ笑い者にされてい
 た。

 和磨達の診察が終わる頃、漆原から雫が目覚めたと聞いた
 磨梨子達が部屋を訪れた。
 青白い顔をしているが、窓から入って来る日の光に照らされ
 た雫の顔は美しかった。

「雫さん・・・・」

 もっと色々話しかけたかったようだが、感極まった磨梨子は
 それ以上話しかける事が出来ず涙を流していた。
 美咲も何も言わず、雫の元へ寄りベッド脇に跪いてただ涙を
 流していた。

「まだ目覚めたばかりだ。 あまり大勢人がいても良くないだろ
う。 何かあれば一ノ瀬もいる。 戻るぞ」

 雫を気遣い、目覚めた雫と静かに過ごしたいと思っているで
 あろう和磨を気遣い、名残惜しげな磨梨子達を征爾が部屋か
 ら連れ出した。
 澤部と漆原も征爾達と共に部屋から出て行った。
 部屋には和磨の他に、一ノ瀬と深山だけが残る。

 直ぐ閉じられるかと思った瞼はそのまま閉じられる事なく、時
 折瞬きはしたが、ただ天井だけを見つめていた。
 そのまま開かれたままなのかと思ったが、10分程経つと瞼は
 閉じられ雫は眠りについた。
 そして3時間程経った頃また瞼が開かれ10分すると閉じら
 れた。

 その間、部屋に控えていた一ノ瀬が最初は15分置きに、そ
 の後は30分置きに雫の様子を見ていたのだが、それ以上の
 変化は特に見られなかった。
 
 翌日も前日同様、朝瞼が開かれ10分経つと瞼が閉じられた。
 数時間経つと開かれまた閉じられた。
 それは5日経った今も変わりない。
 一ノ瀬は最初の言葉通り3日間屋敷に滞在、雫を診て4日目
 には屋敷を後にした。
 何かあれば直ぐ連絡するようにと言い残して。
 
雫、お前の心は、今どこにいる・・・・

 雫の瞳はただ天井を映していた。
 偶に瞳が揺れる事もあったがその瞳には和磨は映っていなか
 った。
 何時になったらこの瞳に光が戻るのか。
 
 先月までは、満月合わせて5日間。
 夜のほんの一瞬だけしか開かれなかった時に比べればまし
 だ。
 
 一月前の今頃であれば、雫はただ眠り続けるだけで、また一
 ヶ月待つしかなかったのだから。
 今は満月を過ぎても眠り続ける事なく、日に2回だけではある
 が目を覚ましている。
 それに一年以上も待ち続けているのだ。
 目覚めが延びたとしても、雫への思いが変わることなどない。

 伴侶は雫だけと決めたのだ。
 これはこの先も変わることはない。

「今はまだ寒いが、温かくなったら外に出るのもいいだろう。 カ
イザー達もお前が来るのを待っているだろうから」

 深山と共に雫にマッサージを施しながら話しかける。
 今はまだ目覚めて間もないから無理だが、もう少し、一ヶ月く
 らい経ったら今寝ているベッドを新しい物と交換し、背上げ出
 来る物にしよう。

 本当なら車椅子で出掛けられればいいのだが、それでは雫の
 体に負担が掛かってしまう。
 時間はたっぷりあるのだから、まずはベッドを使い少しずつ体を
 起きあがらせ慣れさせなくては。
 深山も無理をしなければ大丈夫だろうと言う。

 和磨は早速介護ベッドのカタログを用意させ、一番体に負担
 がかからなく、寝心地の良い物を手配させる。
 その時、健常者では分からない部分もあるだろうからと、実際
 使用している者、会社の社員の家族の中で寝たきりの者がい
 れば彼等にベッドを手配し、寝心地、使い勝手などを本人、又
 は家族に聞く。

 毎日使う物なので、3日もすれば大抵分かる。
 少しでも勝手が悪いという意見があれば、直ぐ新しい物へと取
 り換えまた意見を聞く。
 そして一ヶ月経った時には、どれが一番良いかが分かった。
 和磨は彼等が一番使いやすいと言った物を取り寄せた。
 使い勝手を知るために社員に渡したベッドは回収する事なく、
 そのまま与えた。
 これには社員やその家族から多大に感謝された。

 ベッドが決まるまでの一ヶ月の間、少しではあるが雫の症状
 にも変化が。
 一日10分の目覚めが2回あったのだが、今は時間が少しだ
 け延び15分となった。
 これを回復と言っていいのかは疑問ではあるが、和磨にとって
 は充分で、新たな希望が見えていた。

 そして翌月の満月の事。
 既に目覚めた雫だが、やはり満月の日は特別なのか、話しか
 けても全く反応のなかった雫が声に反応した。

 「雫」と呼びかければ、開かれた瞳が揺れ宙を彷徨い、同時に
 握りしめた手はその度にピクリピクリと僅かだが握りかえして
 きた。
 今までとは違う大きな反応。
 後少し、何か切っ掛けがあれば目を覚ますのではないかと考
 える。

 だがその切っ掛けはなんなのか。
 今回目が覚める切っ掛けとなったのは、漆原の言葉だったが
 同じ事をする事など和磨には出来ない。
 これが他の者であれば躊躇う事なく、それが切っ掛けとなって
 相手が壊れたとしても、なんの罪悪も感じないだろう。

雫だけだ

 昨日一ノ瀬が雫の診察へと屋敷へ訪れた。
 和磨から声に反応すると聞き、実際それを目にして、今度は
 今までの検査、診察ではなく別な試みをしてはどうかと言われ
 た。

催眠療法・・・

 今の雫なら和磨の声に反応する。
 これまでは眠ったままであったが、今は目を開けてもいる。
 
「心療内科ではなく、催眠療法?」

「ええ、本人に意識があり質問に対して受け答えが出来るので
あれば心療内科の受診を勧めますが、それは無理な状態」
 
 その点催眠療法であれば相手に声が聞こえていればいいと
 言う。
 確かに本人の意識がなければ難しく危なくもあるが、一ノ瀬の
 紹介する者は今までにも雫のような状態の患者を診てきたし
 少しでも異変があれば無理せず即刻中止すると。
 一ノ瀬が推薦する者だ、少しは信用してもいいだろう。

それで本当の目覚めに繋がるなら

 和磨は机の上に置かれた携帯に手を伸ばし一ノ瀬の番号を
 呼び出す。
 迷うことなく通話ボタンを押した。





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