優しい鼓動
(30)









「なになに、みんな黙り込んで辛気くさいわよ」

 明るく軽い口調は、女版澤部のようだ。

「美咲さん、帰っていらしたんですか?」

 呆れた口調で漆原が言う。
 それはそうだろう。
 現在美咲は語学留学をしながら建築の勉強をし、イタリアで生
 活をしているのだから。

「あら、漆原。 今日も美人ね。 そうよ、いけない? だって兄さ
んが伴侶を選んだのよ。 それを一目見なくてどうするのよ!」

 一目見るだけのために、わざわざ何時間もかけて帰って来たの
 かと思うと頭が痛い。
 今日一日はいるだろうが、明日には帰って行くはず。
 怱々授業を休む訳にはいかないのだから。
 
「ね、それで何処なの?」

 ワクワクしている美咲に皆が溜息を吐いた。
 そんな皆の顔を見回し、和磨の場所で視線が止まる。
 違和感があったようだ。

「・・・・・ねえ、兄さん。 何抱えてるの?」

 言いながら和磨に近づき回り込む。
 そして顔を真っ赤にしている雫と目が合う。

「「・・・・・・・・・・・」」

 美咲はポカンと口を開けて止まった。
 雫は恥ずかしさと、美咲の視線に耐えられず俯く。
 今の雫は、和磨の膝の上で横抱きされているのだから。
 膝の上から退きたくても、和磨にしっかりと押さえられている
 ために動く事が出来ない。

 初めて会う人物。
 しかも相手は和磨の妹。
 その他にも大勢人がいる。

 涙が出てくる。
 こんな情けない姿を見られたくない。
 思わず和磨の胸に顔を押しつけ隠した。

 泣かれるのは困るが、そんな仕草が可愛らしく、和磨は宥める
 ように雫の髪を優しく梳く。

 二人の姿はとても甘い。
 甘いのだが、美咲の目が拒否していた。

 誰かに心を許す姿など未だかつて見た事がない。
 割り切った関係の女には必要最低限触れていたが、それ以外
 は触れる事は許していなかった。
 冷酷な兄であったが、周りにいる者を惹き付ける。
 誰もが兄を恐れていたが、皆がこぞって和磨の為に動いてい
 る。
 その中でも特に漆原と澤部は忠実だ。

 その兄が自分から誰かを構っている。
 しかも膝の上に乗せ優しく労っている。

信じられない!

「いや―――! 何―――!? あたしの目の前で何が起こっ
てるの。 兄さんが、兄さんじゃない!」

 両手を頭に当て左右に振る。
 折角セットをして綺麗に整っていた髪がボサボサになってい
 く。
 
 美咲の気持ちは分からなくもない。
 今は少し慣れたが、皆、最初和磨が雫を甘やかす姿を見た時
 には、同じように目の前の光景が信じられなかったのだから。

 逆らう者は徹底的に潰し、媚びて来る者はこれ以上ない程冷
 たくあしらっているのを見て来たのだ。

 こんなに心穏やかな和磨など、見た事がなかった。

 美咲の大きな声に驚き、体を震わせる雫。
 和磨が美咲に視線を移す。
 冷たい眼差しに美咲の体が凍り付く。
 兄の機嫌を損ねてしまった自分を叱責した。

 普段も冷たく周りを突き放す様な視線だが、今はそれに射抜く
 ような視線も含まれている。

 それだけ兄が、己の手の中にある存在に強く惹かれているの
 が窺える。

こんな日が来るなんて・・・・・・

 和磨は美咲を一瞥した後、宥めるように雫の背中を撫で、髪の
 毛にキスを落として行く。
 腕の中で震えていた雫だったが、和磨の優しい仕草とキスの
 気恥ずかしさに落ち着きを取り戻した。

 手で涙を拭いながら、和磨を見上げ醜態を見せてしまった事
 を詫びた。
 そして美咲にも、失礼な態度を取ってしまったと謝った。

 羞恥に頬を染めながら言う姿がとても可憐で、思わず美咲は
 見惚れてしまった。
 磨梨子や漆原達も目を細め、微笑ましそうにその姿を見詰め
 ていた。

 改めて雫と美咲の自己紹介が行われた。
 目の前に立つ美咲は雫よりも高かった。
 ヒールを履いているせいもあるが、脱いだとしても僅かばかり
 視線は上になるだろう。
 
 雫自身170cmある。
 通常から見れば背が高いほうだが、雫の家族は皆背が高く1
 80cm近くあったからそれに比べれば低い位だ。
 必要最低限の食事は与えられていたからそこまで身長も伸び
 たのだが、体重だけは増える筈もなくやせ細っていた。

 特にここ最近は食欲もなく、殆ど食べていなかった為に更に
 痩せてしまっていた。
 そのせいで、実際の身長よりかなり低く見えていた。

 そんな雫とは対照的に、美咲の体はふくよかだった。
 決して太っているという事ではない。
 女性らしい丸みのある体。
 出るところは出て、締まる部分はしまっている。
 顔も小さく手足も長い。
 目鼻立ちがくっきりとしており、化粧が薄いにも拘わらずとても
 華やかな女性だった。

 その美咲がまじまじと雫を見ていた。

「ホント、さっきは驚かせてご免なさい。 思うよりも早く口が勝手
に叫んでいたのよ」

「いえ、大丈夫です。 僕の方こそすみませんでした、取り乱して
しまって」

 いいのいいのと美咲が手を振る。
 
「しかし、あなた本当に美人ね。 清楚で可憐て言葉がぴったり
だわ」

 聞き慣れない言葉に戸惑う。
 男の自分に清楚や可憐という言葉は違うのではなかろうかと
 思った。
 それを言った方がいいのだろうか思案する。
 
 困った顔をした雫を助けるように、漆原が料理が冷めてしまう
 からと声を掛けた。
 折角の美味しい初江の料理が冷めてしまうのは勿体ないと
 皆が席に着く。
 そして漸く朝食が始まった。

 やはり雫だけメニューが違った。
 一人メニューが違う事に、丁度お茶を持って来た初江に、皆と
 同じ物でいいからとお願いしたのだが「まだ体調が宜しくない
 んですから、同じ物は無理ですよ」とやんわりと却下されてしま
 った。

 たった一人自分だけの為に、初江の手を煩わすのも悪いと思
 ったのに。
 その意見は初江だけではなく、皆にも同じ事を言われてしまっ
 たので諦める事にした。

 賑やかに始まった朝食。
 話し好きで、会話上手な澤部がいるからというのもあるが、そこ
 に賑やかな美咲が加わった事で少し騒々しくもあった。

 誰かと食べる食事が美味しいと、先日この家に来て初めて思っ
 た。
 こんなに賑やかで、食事が楽しいと思った事も。
 知らぬ間に口元が微笑みを浮かべていた。
 笑う事に慣れていないから、自然に出た笑みもどことなくぎこ
 ちない。
 だが、そんな微笑みでも雫の美しさを引き立てていた。

 今は食も細く体も痩せてしまっている。
 肌も白いというよりは青白い。
 
 が、この先食欲も増え、体重も少しずつ増え体に肉が付いて
 いけば、肌もよりきめ細かなものになり、透明感のあるものに
 変わっていくだろう。
 頬も色づき、唇にも朱がさし美しく花開く。
 誰もがそう思った。

 同時に目を奪われる者も出て来るのも必然。
 雫の体調が一段落したところで、和磨のパートナーとして披露
 する予定ではある。
 和磨の伴侶である事を知れば、そうそう愚かな行動を起こす者
 はいないだろう。
 だが、どこの世界でも必ず一人はそれでも手を出そうとする者
 がいる。
 そんな愚かな者が雫に近づかないように目を光らせ、排除する
 のが、漆原と澤部の役目。
 ここにいる美咲を除いた者は皆、澤部の調べてきた雫に関する
 調査書を読んだ。

 幸薄かった雫を幸せにしたいと思った。
 雫に幸せになって欲しかった。
 同時に自分達の愛する和磨にも。

 清風会の中にある限り殺伐とした日が繰り返される。
 今でこそ大きな抗争はないものの、神崎を狙う者がいる事は
 事実。
 征爾には磨梨子がいた。
 全力を尽くし守りたい者が。
 それと同時に自分を癒す者だった。
 雫にも和磨の癒しになって欲しかった。
 
 雫と和磨の為なら、漆原達は己の手が血に染まるのも構わな
 いと思っている。
 
 そんな思いをそれぞれの胸に秘めながら、雫の為に賑やかな
 食事が進んで行った。

 そんな中、美咲が澤部に「ねえ、澤部。 いい加減私と結婚して
 くれない?」と言って来た。

 その言葉に雫が一人「えっ・・・」と驚いた。

 二人を交互に見る。
 どちらも美男美女。
 とても似合いに見えるのだが、澤部は苦笑していた。
 『何故?』という疑問は、直ぐに澤部の口から出た言葉で分かっ
 た。

「何度も誘って貰って悪いけど、俺には愛するハニーがいるから
無理」

 その言葉に美咲の眉間に皺がよる。
 悔しそうな表情に、美咲が本気で澤部の事が好きなのだと分か
 った。

「諦めないから、覚悟しなさい」

 強気な口調だが傷付いているのが窺える。
 だが雫にはどうする事も出来ない。
 
「ごめんな。 俺の心は愛するハニーの物だから。 それは今もこ
の先も変わる事はない」

 始めふざけた口調だったが、最後は真剣だった。
 澤部が相手の事をどれだけ思っているのかが、強く窺える。

「ね〜、友ちゃん」

 また砕けた口調になっていた。
 そんな澤部を漆原が一瞥し、「俺には関係ない」と一言。

「冷た〜い」

 と言い泣き真似をする澤部を見て楽しく思った。
 だが美咲を見ると、その思いは消えた。
 
「あ〜あ、また振られちゃった」

 美咲は軽く言っているが、瞳が陰っていたから。
 まだ出会ってほんの数十分だが、美咲がとても優しく正直な心
 の持ち主だと思った。
 
 今まで人を疑う事しか知らなかった。
 相手を信じたくても信じられなかった。

 だがここにいる人達は心が真っ直ぐで、すんなりと自分の心の
 中に入り込んでくる。

 とても素敵な人達なのだ。
 だからこそ、美咲の瞳が悲しい。

でも僕には何も出来ない・・・・

 ただ美咲を見詰めていた。





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