優しい鼓動
(2)









 『楽』『嬉』『穏』

 思いついた言葉を書いていく。



 柔らかく暖かな日差しが入り込む神崎家のサンルーム。
 昼食を終えた雫はその場所で午前中の馬達の体調を管理表に
 記入していた。
 
もう一度大好きな馬達と触れ合う事が出来るなんて・・・・

 嬉しくて、ふと思いついた言葉を書いてみた。
 新たに『笑』という言葉を書き足す。
 書いたその文字を見詰めると、自然に笑みが零れる。
 この神崎家に来てから出来るようになった顔だ。

 顔を上げ、その言葉を与えてくれた人達を見る。
 
 こんなに穏やかな気持ちで過ごせる日が来るとは思ってもいな
 かった。
 人というものは環境一つでこれ程までに変われるのだと初めて
 知った。
 
 
 
 見知らぬ土地に来て一週間。

 家族の事、宗之の事、兎に角全ての事から逃げ出したくて、そ
 の後の事など全く考えず飛び出した。

 都会の雑踏に紛れてしまえば、自分の事を知っている者に見つ
 かる事はないだろう。
 仕事も住む場所も何とかなるに違いないと。
 そう思って東京へ出てきた。

 しかし、初めて来た東京は甘くはなかった。


 大学に行くまで静内という牧草地帯と清流に囲まれ、空気の澄
 んだ場所で暮らしていた雫。

 だが獣医になる為に選んだ大学は、北海道の中でも大きな街
 にある。
 車も多い。
 車が多いとなればそれだけ排気ガスも充満している。
 ガソリンエンジンと電気モーターの2つを使いながら環境を考え
 た低燃費で走るハイブリッドカーが増えたといっても排気ガスが
 無くなった訳ではない。
 
 そういった環境で育って来なかった雫には辛く、出てきたその日
 に気管支を痛め体調を崩してしまったのだ。

 それから3年、幾度か体調を崩しながらも何とかその環境にも
 慣れてきた。

 きっと東京も同じ位か、それよりほんの少し悪い位にしか考えて
 いなかった。
 
 羽田に降りた途端自分の考えが甘かった事に気付く。
 空気が非常に悪い。
 喉にも直ぐ異変が。
 このままこの都会に居ては、住む場所仕事を見つける前に体
 を壊してしまう。
 保険証は持って来てはいるが医療機関に掛かる事は今の段
 階では出来ない。
 万が一という事がある。
 見つけられて連れ戻されてしまうかもしれないから。
 またあの憎しみの込められた目で見られるのか、また宗之のあ
 の蛇の様な視線を向けられるのか。
 そう思った途端体に震えが走る。

二度と戻りたくない!

 保険証を使わず医療機関を受診する事は出来るが、そうなると
 医療費は自費で全額負担。
 全財産を持って来てはいるが、部屋を借りれば残りは殆どな
 い。
 職を見つけ収入があるまでの間、その残った僅かな金額で過
 ごさなくてはならないのだ。
 思わずため息が出る。

 それなら少しでも緑の多い場所へ行こう。
 緑の多い場所なら少しは体への負担は減るはず。
 都心に比べ家賃も安いに違いない。

 そう思い、空港内にある書店で東京都の観光雑誌を購入。
 東京都でも外れの方には自然豊かな場所がある事を知り電車
 に乗った。
 幾つか電車を乗り換え、都心から離れるに従ってビルも少なく
 なって来た。
 緑も少しずつ増えて来た。
 気持ちにも少しではあるが余裕も出てきた。
 そして雫の運命を変える事になる馬の姿を電車の中から見つ
 けた。


 
 飛び出して来た北海道には何一つ良い思い出はない。

 家族に見捨てられ、友人もいなかった雫。
 雫の事を好きだと言い、最初は友達としてでいいからつき合っ
 て欲しいと言った宗之。

 初めて宗之を見かけた時、その凶悪な態度に恐れを抱いた。
 知り合う事はないだろうと思っていた雫をよそに、宗之が目の
 前に現れた。
 恐怖が先に立ったが隣にいた宗之は常に優しく、もしかしたら
 人違いだったのかと思ったくらい。
 初めて触れた人の優しさに喜びを感じた。

 しかし、実際は初めて見かけた時と同じもの。
 とても残酷な人間だった。

 「好き」だと言った言葉は嘘だった。
 雫の事は生きた綺麗なお人形だと。
 人形としか思っていないのだから、雫を金で買うという事にも、
 当然何の罪悪も持っていない。

 家族に嫌われているという事は分かってはいたが、借金のかた
 に売られるまで憎まれていたとは思ってもいなかった。

 人というものが信じられなくなっていた。

 だが、唯一馬だけは違った。
 とても繊細で人間の気持ちに聡く優しい。

 悲しい時には必ず実家、若しくは大学の馬達の元を訪れた。
 彼らはいつでも雫を快く暖かく迎えてくれた。
 そしてまるで「元気を出して」と励ますように、鼻先を優しく手や
 頬に押し当ててきた。
 
 東京に出てしまえば、もう二度と馬に拘わる事は出来ない。
 そう思っていただけに、電車の窓から偶然見つけた馬の姿に強
 く惹き付けられた。

 迷わず次の駅で降りた。



 雫の運命を変える事になった馬の持ち主。
 名前は神崎和磨。
 とても悲しく暗い瞳を持った人。
 今まで雫の周りにいた者達とは全く異なり、彼の周りには澱み
 がなかった。
 その為か恐怖、嫌悪感などは一切湧いてこなかった。

でも・・・・・・・ 

 どうして、こんなに冷たく寂しい瞳をしているのか。
 どうしてこの人の心はこんなにも傷ついているのか。

 その痛み、悲しみが一気に雫の中に流れ込んでくる。
 しかし雫に触れてくるその手は優しく温かかった。
 心の痛みと、触れた手の優しさの差があまりにも大きすぎ悲し
 い。

 知らず涙を流していた。
 
 優しかったのは和磨だけではなかった。
 その場に一緒にいた漆原も澤部も澄んで優しかった。
 
 初めて会った素性も分からない自分を何も聞かずそのまま受
 け入れてくれた人達

 だからだろう。

 雫はもう一度人を信じようと思った。
 



 
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