優しい鼓動
(1)









 正午を過ぎているというのに、カーテンが引かれたままの薄暗い
 部屋。

 その部屋の中央に立ち、宗之は怒りに震えていた。

 今までと何一つ変わりない部屋。
 だがたった一つだけ、その部屋に欠けているものがある。
 それはその部屋の住人がいないという事。
 
 まさか逃げるとは。

 家族からの仕打ちにも耐え、宗之からも逃げ出すそぶりも全くな
 かったのに。

 だから宗之は安心し、昨日雫の実家から帰って来た後も今まで
 の様に見張りを付ける事もしなかった。

 明日から宗之のマンションで生活をするが、大切な物があるか
 ら、それだけはどうしても自分の手で荷造りしたいからと言う
 雫。
 二日の猶予を与え、うち先の一日は宗之も荷造りを手伝った。
 その日の夜は二人で夕食を取った。
 その時も変わったそぶりはなかったのに。
 
 帰り際、午前の講義は休んでも進級に影響はないから、午後に
 なったら迎えに来て欲しいという雫の言葉を信じた為にまんまと
 逃げられてしまった。
 
 こんな屈辱を受けた事など今までにない宗之。
 余りにも強く手を握りしめていた為、爪が皮膚に食い込み血が
 流れ出していた。

 携帯を取り出し、雫の実家へと連絡を入れる。

「もしもし、稲村です・・・・・。 昨日の件は無かった事にさせて頂
きます。・・・・・・・理由? 理由は雫さんが逃げたからです。 そ
んな事は俺の知った事ではない」

 イライラが募り口調も今までの丁寧なものとは異なり荒いもの
 へ。

「この俺を脅すのか? ・・・そんな証拠が何処にある。 ふんっ・・
・・唯一それを証明してくれそうな雫はいない。 あまり煩く言うな
らこっちが名誉毀損で訴えてやってもいいぞ。 いや、その前に
お前達の牧場を潰すのもいいな・・・。 どちらの分が悪いか、よく
考えるんだな」

 言って切る。
 雫が逃げただけでも腹立たしいのに、あんなクズのような奴ら
 に脅しをかけられるとは。
 この怒りはそう簡単には収まらない。
 雫の実家の牧場が潰れようが、家族が心中しようが知った事で
 はない。

 別な場所に連絡を入れる。

「俺だ、屋代牧場を潰せ」

 そう一言だけ言い携帯を切る。
 数日もしないうちに屋代牧場は潰れるだろう。
 
 だが逃げた雫は簡単に許す事は出来ない。
 雫が宗之のもとから逃げ出した事は、遅かれ早かれ仲間や取り
 巻き達に知られるだろう。
 今まで完璧にしてきた宗之にとって、その事がどれ程屈辱な事
 か。
 宗之の瞳にどす黒い炎が。

 そしてまた別な場所に連絡を。

「もしもし、俺だ。 雫が逃げた。 金はいくらでも出すから必ず捜し
し出せ。 もしかしたら北海道にはいないかもしれない。 空港に
も確認しろ」

必ず捜し出し、二度と逃げ出さないように躾けてやる・・・・・




 宗之から突然融資の話を白紙にされた雫の実家。
 皆が一様に怒りと絶望に囚われていた。

 電話を取ったのは二番目の兄仁志。
 丁度皆で昼食を取っていた。

「はい、屋代です。 ああ、宗之さん昨日はどうも! ・・・え?どう
いう事ですか? 昨日は融資して下さるって。 そんな・・・・理由
は、理由を教えて下さい!」

 始め『宗之』という名前に父と長兄は顔を綻ばせていた。

 宗之はこの北海道を代表する稲村議員の息子。
 稲村議員は国会内でも大きな発言力を持ち、現在は環境大臣
 という職についている。

 その議員の息子である宗之が、現在億近くある屋代牧場の借
 金を半分以上肩代わりし、不足分は銀行に口利きをし融資を
 受けられるようにしてくれるというものだったから。
 ここまで多額の借金のある自分達に、融資してくれる銀行など一
 つたりとも無かった。
 しかし稲村議員の息子の口利きともなれば銀行も融資してくれ
 るだろう。

 ただしそれには条件があった。
 その条件というのは、屋代家の三男雫を宗之に差し出すという
 もの。
 屋代家の男達にとっては願ってもない事。
 邪魔な雫がいなくなる。
 そして借金も半分以上なくなり融資も受けられる。
 皆が大いに喜んでいた。
 そして今も。

 だが雲行きが怪しくなってきた。
 電話が宗之からと分かり歓喜の声を上げていた仁志だったが、
 その口調は次第に困惑となり・・・・・
 
「雫が逃げた?! じゃあ融資はどうなるんですか! そんなっ!
・・・・もし融資を断るなら『稲村議員の息子はゲイで、男を金で買
っている』って週刊誌に売ってもいいんですよ。 ・・・・え・・・ま、
待って下さい稲村さん!」

 絶望となった。
 
 仁志は受話器を持ったまま、その場に崩れた。
 強く握りしめられた受話器を父が剥がし取り、耳に当てるが既に
 切られた後。

 詳しい内容までは分からないが、ハッキリ分かる事は「雫がい
 なくなった」と「融資の件が白紙になった」という事。

 詳しい内容を聞く為、呆然としている弟を兄が揺さぶる。

「おい、何があったんだ。 おい!」

 虚ろな眼差しで二人を見詰め「逃げた」と。
 そして自分の言った言葉に正気に戻る。

「・・・雫が逃げた。 宗之さんからの援助もなし。 銀行に融資の
口利きもなくなった。 もう駄目だ・・・・」

 両手で顔を覆い項垂れる仁志。
 その言葉に反応したのは父。
 鬼の様な形相。

「宗之さんかなり怒ってた。 牧場も潰すって・・・・」

「ふざけるな!」

 それを聞いた長兄が壁を殴り電話台を電話を乗せたまま蹴り倒
 す。
 激しい音が居間に響く。

 食事を中断し、今まで黙って聞いていた母が口を開く。

「お母さんは良かったと思うの。 雫が逃げてくれて・・・・・。 いく
ら借金があるからって、雫を、息子を売り渡す事なんてお母さん
には出来ないわ。 あの子はあなた達と同じ、可愛い息子だか
ら・・・・・」

やっぱり、雫を庇うのか! 

 どす黒い怒りに包まれる仁志。
 宗之の怒りに油を注いだのが自分の言葉だという事を、脅しを
 かけたからだという事に全く気付いてない。
 
彼奴が悪いんだ・・・・
彼奴が逃げるから宗之さんが怒るんだ
彼奴のせいで俺たちの牧場が潰されるんだ
それなのに、母さんは雫の奴を庇う
やっぱり俺たちから母さんを奪うんだ
彼奴さえいなかったら・・・・・・

 仁志の瞳に狂気が宿った





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