優しい場所

(1)





 寒さに凍える季節が過ぎ去り、新たな命が芽吹く季節がやって
 来た。
 清風会本部であり、神崎本家でもあるこの屋敷の周りにも春が
 やって来た。
 屋敷の周りに植えられた桜が満開となり、優しい春の色が屋敷
 を埋め尽くしていている。

 麗らかな春の日差しの中、屋敷の中でもっとも桜が咲き乱れる
 春の庭と呼ばれるこの場所に和磨は佇んでいた。
 桜が満開となると同時に花桃も咲き乱れ、その足下には芝桜が
 ピンクの絨毯となり、可愛らしいスズランの花が地面を覆い尽く
 す。
 春から初夏にかけ、屋敷の中で最も美しく優しい庭だ。

 少し強い風が吹き、桜の花びらが和磨の周りに舞い落ちる。

「雫・・・・・」

 最愛の者の名前を呟いた。
 美しいこの景色を愛する者に見せたかった。



 実の兄に恨まれ、ナイフで刺された雫。
 一ノ瀬病院ERにて直ぐさま緊急手術が行われた。
 院長である一ノ瀬と、偶々居合わせた天才外科医と言われるそ
 の弟の手によって手術が行われた。

 刺された場所は腹部2カ所。
 一番最初に刺され、刃物が抜かれた場所から大量に出血してい
 た。
 そして同じ刃物で繰り返し。
 最初に刺された場所はナイフが一旦引き抜かれた為に傷口が
 歪になっており、そして傷もかなり深い。

 2度目に刺された場所には、まだナイフが突き刺さったまま。
 慎重に取り去り、処置していくがその間に血圧が一気に低下し
 危険な状態に。
 血圧、心拍を高める為の薬剤投与の処置が行われるが、遂に
 雫の鼓動がその動きを止めてしまった。

「雫!」

 気丈な磨梨子がその場に泣き崩れ、和磨が雫の名を叫ぶ。

彼等にとって大切な者を二度と失わせる事は出来ない!
 
 一ノ瀬達は全力を尽くす。
 可能な限り蘇生処置を施した。
 時間との戦い。
 長引けば長引く程蘇生の確率は低くなる。
 2分以内なら90%。
 4分後では50%。
 10分後では、限りなく0になる。
 
 蘇生したとしても、脳に酸素が行かない状態が続いた為、障害
 が出るだろう。
 それでも彼等は諦めなかった。
 雫を生かす為、様々な処置を施しながらも腹部を縫合していく。
 いつ鼓動が動き始めてもいいように。
 しかし、雫の鼓動は止まったままだった。

 通常であれば手を止め、瞳孔で反射確認などをして死亡を伝え
 るのだが、彼等は諦めず蘇生処置を繰り返し行っていた。

 そんな中、連絡を受けた征爾や勇磨、磨梨花達も駆けつけ、そ
 の状況に呆然と佇んだ。

「嘘だろ・・・・・」

 変わり果てた雫の姿。
 勇磨は信じられなかった。

 一ノ瀬達が懸命に蘇生処置をおこなってはいるが、雫の顔を見
 ればそれが全く効果がないのは一目瞭然。
 通常でも真っ白であったその肌。
 だが今は違う白さ。
 血が通っていない死者の肌。
 唯一赤みのあった唇からも、その温かさを感じない。

「何で、何でだよ! 起きろよ、起きてくれよ!」

 透明なガラスの向こうにいる雫に向かって勇磨は叫んだ。
 蘇生処置を行い始め30分が経過した。
 倍以上の時間をかけ、彼等は雫の命を呼び戻そうとした。

 だが、それは叶わなかった・・・・

 一ノ瀬は蘇生処置の手を止める事はなく、痛ましそうな瞳で和
 磨達を見た。
 和磨は最善を尽くし雫を手当し、蘇らせようとしてくれた彼等に
 一礼をした。
 その手は強く握りしめられ震えていた。
 
 和磨が一礼した事で、一ノ瀬達の手が止まる。
 そして遂に、一ノ瀬の手によって死亡確認が行われた。

「嘘だ! 何で止めるんだよ。 まだ諦めないでくれよ! 兄さんも
何とか言えよ!」

 処置室のガラスを叩き叫ぶ勇磨。
 後ろから征爾に止められる。
 磨梨花自身、涙を流しながらも泣き崩れる母を力強く支えた。

「クソッ!」

 澤部は廊下の壁を思い切り殴りつけ、漆原は唇を噛みしめた。
 強く噛みしめすぎて、唇からは血が流れていた。

 後ろでは雫を捜していた組員達がいつの間にか駆けつけ嗚咽
 を漏らしていた。
 あまり顔を会わせる事はなかったが、雫は彼等に丁寧に挨拶
 してくれた。
 始めて顔を合わせた時、、男にしては顔立ちは綺麗だがか弱そ
 な人だと思った。
 自分達のようなヤクザ者といてこの人はやっていけるのだろう
 かと心配になる位、顔は青ざめていたし震えてもいた。
 何故この人物を選んだのか。
 畏怖しながらも、敬愛、尊敬する和磨が選び、隣に立つにしては
 お粗末すぎると思わず思った程。

 だが雫は怯えながらも彼等を軽蔑する事なく、丁寧な口調、物
 腰で挨拶をしてきた。
 そして挨拶し終わった後の、少しはにかんだ優しい微笑みに組員
 達は魅了された。
 後から漆原に雫が極度の人見知りだと聞き、「ああ頑張ったん
 だな」と何故か納得した。
 
 その後も顔を会わせると、必ず丁寧に挨拶を交わしてくれた。
 人生のはみ出し者と言われ、忌み嫌われるやくざを雫は嫌悪、
 軽蔑する事なく優しく挨拶をしてくれた。

 和磨に寄って来る女達は皆顔はそれなりに美しかったが、傲慢
 で高飛車だった。
 上の者には媚びた姿で、下の者達は蔑んだ目で見ていた。

 だが雫はそっと和磨に寄り添うだけ。
 和磨に頼り切っている訳ではなく、どこか芯の強さを感じさせられ
 た。
 そんな雫といる和磨は、今まで一度も見せた事もない柔らかい
 笑みを浮かべるようになり、そして気配も穏やかなものへとなっ
 ていた。
 ようやく心を許し、孤独な和磨を癒してくれる半身を見つけたのだ
 と組員達は喜んだ。
 雫が来た事で屋敷が、神崎家そのものが優しさに包まれていた
 のに・・・・・



 今の和磨の表情からは、雫という半身を失った事に対する感情
 が分からない。
 だが、全身が全てを拒絶していた。
 虚無と闇に覆われている。
 誰も近づけない。

 和磨達の前で、血に塗れていた雫の体が綺麗に清められてい
 く。
 そして縫い合わされた傷口を、体を隠すよう、一ノ瀬達が丁寧に
 包帯で巻いていった。
 新しいシーツが用意され、丁寧に横たえられ、体の上にも同じ
 ように真新しいシーツが掛けられた。
 その体に雫の魂がない事は分かっていたが、少しでも寒くないよ
 うにそして少しでも綺麗な姿に見えるようにと。

 シーツで体を隠されると、雫はまるで眠っているようにしか見え
 ない。
 だがその白さに、温かな血が通っていない事が分かる。
 苦痛の欠片も見られない、穏やかな死に顔。
 このまま霊安室に行くのは寂しいだろうと、支度が整うまでの間
 雫の遺体は特別室へと移された。
 そして和磨だけを部屋に残し、皆は部屋から出て行く。

「雫・・・・・」

 いつもと変わらない寝顔。
 少し乱れ顔にかかっていた髪をそっと払い、撫でつけた。
 その手は震えていた。

 まだ完全に冷たくなっていない。
 それに手も、頬もまだ柔らかい。
 死んでいるとはとても思えない。

だが、魂はここにはない・・・・・

 言葉では伝えていなかったが、雫を愛していた。
 初めて見た時から、その澄んだ瞳に心を奪われた。
 側に置いておきたくて、強引に強制的に屋敷に住まわせた。

 幸せとはほど遠い場所にいた雫。
 和磨や漆原達から始めて与えられる、温かさ優しさと束縛に戸
 惑い、怯えながらも受け入れた。
 もっと自分に自信を持てと言っても、なかなか自信が持てなくて
 落ち込んでいたのも分かっていた。
 だが、和磨の隣にいる事を選んだ事に対しては後悔していない
 ようだった。
 今、自分に出来る事を頑張ろうという前向きな姿勢も見られた。

・・・・その強さが眩しかった

 ぎこちなかった笑顔も自然に笑えるようになり、和磨と体を繋げ
 た事によって、清楚な華は艶を滲ませるようになってきた。

『和磨さん』

 呼びかける声も優しく、心地よかった。
 その時にフワリと優しく笑う顔が好きだった。
 もっと早く気持ちを伝えておけばよかったと後悔する。

最後に愛していると言った言葉、お前に聞こえただろうか・・・・

 そっと額にキスを落とす。
 二度と開かれる事のない瞼。
 澄んだ瞳、優しい言葉、笑み、全て聞く事、見る事は出来ない。

お前も、俺を愛してくれていたか?

 生きている間に、雫の口から聞きたかった。
 この先ずっと同じ時間を過ごしていくと信じていた為に、急かさ
 なかった言葉。
 その顔から、そして仕種から和磨に対する愛情が伝わって来た
 から聞かずにいた。

一度だけでもいい、お前の口から聞きたかった・・・

 雫の家族が血眼になって捜していたのは分かっていた。
 だが、漆原達に任せていた為、安心していた。

いや、これはただの言い訳だ・・・・

 任せていた事に安心しきっていた愚かな自分。
 漆原達はよくやっていた。
 誰かを責めるつもりはない。

 暫くの間雫の側に付き添っていたが、和磨は後始末を付けるべ
 く立ち上がり部屋を出た。

「和磨さん・・・・・」

 部屋の外には澤部と浅井とが数名が立っており、和磨を見て
 瞳を少しだけ歪ませた。

「・・・・雫を頼む」

 そう言って、澤部を部屋の前に残し、浅井達を引き連れ漆原達
 が待つ部屋へと向かった。




 
 
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