優しい場所

(32)





『雫・・・・』

和磨さん・・・

 誰よりも愛する人の声が聞こえたかと思うと同時に、フワリと意
 識が浮かび上がる。
 ああ、眠りから覚めるのだなと感じた。

 慣れ親しんだ、最も大切な人の気配がする。
 眠る雫の頬に手が触れる。
 目を開けたらいつもと変わらぬように、和磨の姿がそこにあるに
 違いない。
 
 最初の頃より大分軽くなった瞼を開けてみると、そこには思い描
 いた通り愛する和磨の姿があった。

「お、は・・・よ・・・・・」

 まだまだ上手く言葉を紡ぐことが出来ないけれど、始めて声を出
 した2日前に比べて声が出るようになっていた。
 深山達には無理しすぎだと怒られた。
 和磨が好きだと言ってくれた笑顔も作れないけれど、気持ちを伝
 えたくて掠れた声だが話しかける。

「おはよう」

 雫の頬に添えられた大きな手。
 和磨は無表情だがその瞳は柔らかい。
 大きな愛情を感じ、その思いを手放さなくて本当に良かったと
 思っていた。

「甘い。 甘いな〜。 朝からこの甘さ堪らな〜い」

 見つめ合う二人にかけられた声。
 和磨の直ぐ後ろに、澤部の姿が。
 茶化す澤部をいつものように、漆原が加減なしで殴る。
 その脇には深山達の姿も。
 
 

 最初は見知らぬ深山の姿に戸惑ったが、今ではその存在、気配
 にも慣れ心を開くようになっていた。
 一番の理由は、深山が漆原や澤部と大学からの親友だと聞い
 たからだろう。

 時折部屋に澤部が訪れて、深山と楽しそうに話をしている姿を
 見てにいたら、とても悪い人物には見えなし、和磨も信頼している
 よう見受けられたから。
 今朝も訪れ、深山と漆原に絡んでいた。

「仁さ〜ん、友ちゃんが怖い〜」

 笑って適当に流す深山に頬を膨らませる。

「何だよ、庇ってくれてもいいじゃん。  毎日、朝から晩まで友ちゃ
んと一緒でラブラブなんだから優しくしよろよ。 イデッ!」

 今度は思い切り蹴られていた。
 仲の良い三人の姿が羨ましく、楽しく思える。

またこんな幸せな時間が手に入るなんて・・・

 嬉しさに、雫の顔に笑顔が。
 まだ顔の筋肉が上手く動かないので殆ど表情に変化がない。
 ほんの僅か口角が上がるくらい。
 それもよく見ないと分からないくらい僅かなもの。
 だが以前と比べ、雫の顔にも表情が戻ってきていた。
 あのまま死んでしまわなくて本当に良かったと思った。

 体調も回復してくると、当然起きている時間も長くなる。
 そうすると色々な事が気になってくる。
 自分を刺した仁志はどうしたのか。
 あの場にいた両親、そして必死に雫を庇った宗之は。

 凄く怖くて二度と会いたくなかった宗之。
 だがあの時、必死に兄から雫を庇ってくれた。

本当は凄くいい人なのかもしれない

 今まで見ていたのはほんの一部の悪い所だけで、実際は優しく
 正義感溢れる人なのかもと思い始めていた。

 だが、宗之の素行調査書を見ている漆原や澤部が聞いたらそれ
 は絶対ないと言い切るだろう。
 あれだけ裏切られてきたのに、根本的に人を疑いきれない雫を
 お人好しだと思うかもしれない。
 
 それでも、あの時の姿は忘れない。
 あの場には、両親も、もう一人の兄もいたのに誰も助けようとして
 くれなかった。

本当に見捨てられたんだ・・・・

 ただ一人、宗之だけが雫を守ろうとしてくれた
 今度出会うことがあったら「ありがとう」と感謝の言葉を伝えたい。
 
 そう言えば、あの時一緒にいた女性は誰だったのだろう。
 初めて見る人。
 とても綺麗でスタイルが良かった。
 誰が見ても魅力的な女性だと思うのだが、雫に向けられた瞳は
 憎悪で染まっていた。

 常に向けられた感情。
 慣れてしまうつもりはなかったが、やはり、またかと思ってしまう。
 
あの時、和磨さんの婚約者って言っていたけど・・・・・

 雫の心が不安に染まる。
 本当に、彼女は和磨の婚約者なのか。
 結婚してもおかしくない年齢。
 耳に入ってこなかっただけで、出会う前からそんな存在がいたの
 かもしれない。

 もしそうであれば、彼女からしてみれば、素性の知れない自分な
 どが側に居たならば憎悪してもおかしくないと考えていた。

 皆が雫を大切に思っていてくれるのは分かる。
 和磨の瞳も優しく、雫を気遣う思いが見て取れる。
 疑いたくない。

和磨さん・・・・

 こんな醜い思い、気づかれたくないと瞼を閉じる。

駄目・・・・

 皆を、和磨を疑ってはいけない。
 目を覚ました時、彼らは本当に喜んでくれた。
 真理子も、勇磨達も涙を流していたのだから。



 和磨が雫に触れる時の手はいつも優しかった。
 大きく温かな手。
 体温はそれ程高くないのだが、その手から伝わってくる気持ち
 が本当に温かかった。
 
 刺される以前からも、和磨は安心するよう雫に触れ心を温め慰め
 てくれた。
 だが今触れる手は、以前とは少し違う物になっていた。
 なんと言うか、確かめている、そんな触り方。

 雫がそこにいて、その体温を感じ、生きている事を確認してい
 るそんな感じがした。
 
 実際、雫が重い瞼を開けると、常に一番に和磨の顔がそこにあ
 った。
 刺されたと気付いた瞬間。
 もう二度と会えないと思った時、己の本当の気持ちに気付いた。

 雫に優しく、常に温かく包み込んでくれた和磨。
 いつの間にか好きだと思っていた。
 だが実際、命を落とす事になった時、その気持ちは好きという
 ものよりもっと大きな、『愛している』という気持ちだという事に
 気付いた。

 尽きたと思ったこの命。
 和磨から伝わってくる、不安と怯え。
 
大丈夫、生きている

 言葉にして伝えたい。
 この思いと一緒に。
 しかし、今の雫にはまだ伝える事は叶わない。
 だから、その瞳に思いを込める。

僕はここに居ます
あなたの、側に
 
 だから怯えないで。
 生きている事を感じて欲しかった。
 
「・・・・・ぅ・・」

 唇から漏れる声。
 目覚めてまだ3日。
 言葉にはなっていないが、少しずつ唇は動くようになっていた。

 側に居る、深山や検診に訪れる一ノ瀬はそんな雫の姿に、急
 ぐ事はない、ゆっくり時間をかけて元に戻って行けばいいと言う。
 でも雫は今思いを伝えたいと思った。

 出来る限り唇を、和磨に触れたいと思う手を動かそうと努力した。
 無理は良くないと宥めても、雫は頑として聞かず周りを困らせ
 た。

 大人しく控えめな筈の雫が、その事に関してはどうしても譲らな
 い。
 だがこのまま無理に体を動かそうとすればする程、体に余計
 な負担がかかり、雫の体に悪影響が残る。
 気持ちが分かるだけに、無理はしないさせないという事で、少
 しずつリハビリを始める事にしたのだった。

 「雫ちゃん、意外と頑固だったのね」と澤部がボソりと呟いた。

 顔の筋肉を動かせる練習、他にも指の運動。
 まだ自分では動かせない雫にスポンジで出来たボールを握ら
 せ、その手を上から和磨が、時には深山が握り、力の入れ方
 手の動きを教えて行く。
 少しでも口が動かせるよう顔のマッサージをされ筋肉を解される。
 ままならない己の体に苛立つ雫。
 
どうして動かないの
早く伝えたいのに、どうして言葉が出ないの

 始めてまだ一週間。
 目覚めてまだ10日しか経っていない。
 気持ちだけが先走り、空回り。
 雫の瞳が涙で滲む。
 そんな雫の気持ちに、深山も和磨も気付いているので、何も言
 わずそっと涙を拭うだけ。

 その日も目が覚めた雫の瞳に深山、漆原、和磨の姿が映る。
 常に誰かが側にいてくれる。
 そして皆が優しい笑顔、愛情を向けてくれた。
 この日も目を覚ますと、皆、変わらず優しい笑顔を与えてくれた。
  
「お早うございます雫さん」

「雫さんお早うございます」

「雫ちゃん、おはよ。 ささ。 和磨さんも」

 丁度その場にいた澤部に促され、和磨はベッドの脇に座り、そっ
 と布団の中から手を取りだし握りしめた。
 
和磨さん・・・

 名前を呼びたいのに、言葉が出てこない。
 唇だけが震えているだけ。
 悔しくてしかたない。
 『ありがとう』と伝えたいのに。

「無理をするな。 言いたい事は分かっている。 無理をしなくとも、
その内声が出るようになる。 今はゆっくりすればいい」

 言って雫の髪を撫でてくれた。
 優しい言葉と心遣いに、瞳が潤む。
 
 こんな不自由な体で、皆に迷惑をかけてばかりなのに誰も文句
 も言わず、そればかりか無理をするなと言う。
 強張っていた心がスッと解れて行く。

本当に優しい人達

 滲んだ涙をそっと拭かれ、和磨が脇に置かれていた水差しを取
 り、少しだけ雫の唇を濡らしてくれた。
 
 まだ水が飲めないから、今は口の中を湿らすだけだ。
 食事を摂る事も出来ない為、今は点滴で栄養を補充している。
 湿らせてくれたお陰で、口の中が潤う。

 「和磨さん、挨拶がまだですよ」と澤部が後から声をかける。
 そんな澤部に漆原が「空気を読め」と言い蹴り飛ばしていた。

「イテっ! なんだよ、友ちゃん。 朝の挨拶は大事なんだぞ」

 ブツブツ文句を言い、蹴られた場所を撫でている。
 変わらない彼等の遣り取りは、今の雫にとって取り戻した大切
 な時間。
 そんな彼等の遣り取りを横目に、和磨は雫に視線を戻す。

「おはよう。 雫」
 
 しっとりとした低く柔らかい声。
 何気ない朝の挨拶。

 潤った唇に解れた気持ち。
 マッサージのお陰で顔の強張りも少し取れた気がする。
 今なら言葉が出る気がした。
 ゆっくりと少しではあるが、唇を開く。
 漏れるのは小さな息づかいだが、そんな雫の様子に皆が雫に
 注目し息を凝らす。

・・・・・・す・・・

 最初は漏れる吐息。
 その後、殆ど聞き取れないくらい小さな音だが、確かに声が、言
 葉が聞こえた。

『おはようございます』
 
 そう聞こえた。
 漆原が息をのむ。
 その場にいた全員が目を見開いた。

「今、雫ちゃん、声、でたよね・・・・」

 澤部に同調し、信じられないと深山が呟く。
 一年以上眠り続けていた雫。
 その間、当然会話もない。
 目覚めたばかりで、リハビリも始めて間もないのに、声が、言葉が
 紡がれたのだ。

・・お・・・・・ぁ・・、・ょ・・・・・ぅ・・・・・・・、・・・・ぅ・・・・・
 
 まだ完全ではないけれど、耳を凝らして聞かないと分からないが、
 ちゃんと言葉になっている。
 
『おはようございます』と

 健気で、一生懸命な姿に漆原の瞳が潤み口元を右手の拳で
 隠す。
 漏れそうになる嗚咽を必死で押さえるかのように。
 そんな漆原の肩を深山が抱く。
 
声が出た・・・・

 あれ程頑張っても出なかった声。
 それが、今漸く出た。

・・・・・・かぁ・・・、・すぅ・・、・・・・まぁ・・・・・ん・・・・

「雫!」

 漸く呼べた和磨の名前。
 嬉しくて心が切なくて、瞳から涙が溢れた。

 力強く呼ばれた名前。
 強く握りしめられる手。
 少し痛かったが、そこに和磨の思いが全て溢れていた。
 




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